亀首の大蛇

上富田町岡の八上神社(八上皇子社跡)の前を流れる岡川(富田川の支流)の上流に、亀首(鎌首ともいう)という所があり、ここには大蛇退治の伝説が残る亀首神社がまつられています。
亀首の地は、少し離れた上亀首と下亀首に、それぞれに大きな渕・巌・洞穴・滝があり、上亀首の黒松の大樹には雄の大蛇がすみ、下亀首の大きな赤松には雌の大蛇が住んでいました。二匹の大蛇は夕暮になると、洞穴から出て、道行く人々をおそい、食べてしまうので里の人たちは人食蛇とおそれました。
あるとき、熊野の浅里から来た浅里弾正法印という旅の集権道がこの話を聞きました。彼は熊野三山で修検者をきわめ、呪術にすぐれ、筋骨たくましく剣の達人で、常に三尺三寸(1メートル)の名剣をたずさえ、諸国遊歴の途上でした。
彼は里人の難儀をみかねて、大蛇退治に亀首に向かうと、森の中から子供の泣声がします。見れば、二十㍍にもなる赤松の大蛇が、子供を巻きこんで洞穴に消え、すぐに口に子供をくわえ、上亀首に現われました。彼は腰の名剣をひきぬいてかけつけると、突然横から黒松の大蛇が毒気を吐きながら、弾正めがけて飛びかかって来たのです。すかさず一刀のもとに切り伏せ、とどめを刺し、ずたずたに斬り川へけり込むと、見ていた赤松の大蛇は、悲鳴をあげて子供を離し、弾正に助けを求めました。彼は
「今ここでお前を仕止めることは易いが、それはわしの本意でない。今後人々に害を与えぬことを誓い、百姓が日照りで困ったときに、雨を降らして助けることができるか」
というと、赤松の大蛇は
「恐れ入りました。これから洞穴から外には出ません。雨のほしいときは必ず雨を降らします。三日以内に雨がないときは蛇虱という小さい斑点のある鰻を岩穴から出して、お知らせします」
と固く誓ったので、剣をおさめ大蛇を許しました。
彼は里の人々を集め、黒松の大蛇のために祠を建て、日照りのときはそこで雨乞いをすることを命じ、名剣を与えて立ち去りました。
その後、里の人々は彼のいいつけどおり亀首に祠を建て、上亀首には大蛇を祭り、下亀首には剣を祭って、毎年大蛇退治のあった日にそろって参詣しました。それ以来大蛇は出なくなり、夏の日照りに雨乞いすると、すぐに雨が降り霊験(信仰に対して与えられる不思議な利益)著しく、人々の崇敬を集めたといいます。
祠を建ててから、洞穴が上三栖の坂口渕に通じたといい、また上流から材木を流すとき、亀首で悪口をいうと材木が残らず洞穴に吸い込まれて出てこなくなるといわれます。また、渕へ汚物を流すと、帰宅してから急に悪病にとりつかれ、あるいは狂人になって狂い死したともいいます。
下亀首に祭った名剣は、後に(人々が飢え苦しむこと)のとき荒麦三升と交換して伯耆国(鳥取県)へ流れ、深さ10メートルもあった渕も、明治二十二年の大水害で山が崩れ、洞穴とともに埋まり、森厳な昔日の面影は全く消えてしまったが、今でもが祭られています。
体に斑点のある蛇虱(ジャシラミ)というは、長さ20センチ位で、赤または黄色の首輪があり、最近までこの谷に姿を見せていたといわれています。

<熊野文庫より引用>